「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を移してやみん」・・黒住宗忠



私の感想

この黒住宗忠の言葉は正確には、映して、又は写してではなくて「移して」

であります。いままでは私もそうでしたが、殆どの方は自分の姿を相手の

鏡に写して自分の姿を見ると解釈していたことと思います。

しかし実は黒住宗忠の原本では写してではなくて移してなのです。

では何を相手の鏡に移すのでしょうか?

それは私達自身である天照大御神の御分心なのです。



私が解釈するこの言葉の意味は

①私もあなたも(人の心は)天照らす御祖の神の分心であり鏡(御鏡)です。
 
 私もあなたも意識はされていないけれども本当は神の子なのです。しかし

   現在の私達の意識とは殆どが神の子の意識ではなくて、神の子の意識を

 覆い隠しているエゴ、「我の心」、記憶の思考なのです。この思考が

 私達の意識を覆い隠し、私達の意識となってしまっているのです。

②その鏡・意識・神の子は「我の心」(記憶・思考・私)によって覆われています。

③それなので

  Ⅰ:”「相手の姿」として知覚されている自分の鏡を覆っている「我の心」”
 
    のことをハッキリと見て(観る・観照する)、知る必要があります。
    
    (ここで相手の鏡に映る自分の姿を、間違って相手だと知覚してい

    るのは鏡ではなくて鏡を覆っている思考・我の、即ちこの私です)

  Ⅱ:合わせ鏡である自分の鏡を相手の鏡に移して(即ち純粋なる「思考

    ではない意識」の一部を相手の鏡に移動し投射して、そこから自分

    の現在の自分のありのままの状態を鏡・観照者として思考なく観ること。

   何故思考なく観るのかと言えば、私達である天照大御神の御分心は鏡という

   純粋なる意識・鏡・観照者意識であるからです。思考は鏡という純粋な

   意識ではありません。(即ちこの方法は正しい自己観察でありクリシュナム

   ルティーの思考なく〈非難や判断無く〉見るということでありましょう)    
    

  Ⅲ:相手の鏡(お互いに神の子である)から、この私の鏡を覆って包んでいる

    「我の心」をハッキリと見なさいということ。

    虚偽(思考は私を詐称しているということ)を虚偽と見ることが虚偽からの

    解放を齎すと教えられております。

    (これは思考・判断・非難・同一化無くエゴを凝視しなさいということ)

    思考の根源、思考が出現する思考の隙間を観ると言うことでありましょうか。


  Ⅳ:私とあなたである神聖なる合わせ鏡を覆っている、その「我の心」

   (記憶・エゴ・思考)は「我の心」である自分の姿を相手であると間違って

    知覚していますので、相手を非難し、判断し、争い、戦い、恐れています。

    それなので私達は自身である神聖なる天照大御神の御分心の一部を相手に

    移して、

    その神の子である相手の鏡から私の鏡を覆っている「我の心」・自己関心

    不安・暴力・エゴ・思考・記憶を見なさい。・・と言うことであります。

    しかし、これは単純ではなくて非常に努力と理解力を要することであります。


    即ち復習すると、相手の神聖なる鏡に自分である神聖な鏡の一部を移
    動して
    その相手の立場から自分の鏡に相手として映っている「我の心」思考・
    エゴを非難無く、判断無く、愛をもって見るとき、聖なる秩序が顕現
    します・・ということでありましょうか。
    思考の根源にまで深く到達し、思考が発生するその様を熟視し
    思考と思考の隙間の発見がそれを齎す・・と言われております。

    この「自分の内面のあるがままをあるがままに思考なく見る」という
    実践を通じて恩寵により鏡を覆っていたその記憶・思考が消えていき
    本来の天照大御神の御分心である「天の心」が顕現してきます。
    ・・・と言っておられるのではないか・と私はそう思うのです。


禅の師は言われます。

「本当に自己(思考)がなくなれば、私は即ち相手(他者)です。自他

 の分離がなくなります」(自他の分離を知覚しているのは潜在意識の

 中の思考なのですということ。)

「一心不乱に考えることを止めること・・これ以外に修行はございません」

「つまり”私”とは”悲しみ”、”不安”、”恐怖”から抽象されたものです」
 
「つまり私とは悲しみ恐怖から分離していないのです。」

「私が悲しむのではなくて、悲しみが私なのです」

「私が恐怖しているのではなくて、恐怖が私なのです」


 

・・・と言っておられます。
  
 これは即ち自己想起と自己観察を同時に行いなさいということであります。